輸入貿易会社、社長の仕事術

経営46年の経験・知恵が詰まった集大成ブログ

経験談をしよう。

創業 その5

大学を出て、サラリーマン生活を2社で送った。ただ2社とも今でいうブラック企業で、他人の金儲けの手助けはもうこりごりだと思い、会社が大幅なリストラをしたときに独立を決意した。

 

当時私は資金繰り担当をし、その会社では国際部長兼、経理部長兼総務部長代理であったし、親会社の取締役を兼ねていた。会社は日米の合弁会社で入った当時はもちろん私はもちろん平社員。だが1年後、資金繰りに困っていた社長に代わり、資金繰りを担当するようになっていた。

リストラの結果49人いた社員が8人になり、資金繰りをしていた当然その一人に残ったが、同僚社員の働き方や社長の考え方にはどうしても付いていけなかった。

私は33歳、子供は3人いて、小さな家をローンで買ったばかりだった。今考えるとどうしてそんな冒険をしたのか分からないが、兄も会社を経営していたのが刺激になった。それより勤めていた会社の社長の言動にどうしても人として賛成できないものがあったのが大きかった。

妻も貧乏な家の出身。私の独立に反対しなかった。しかし会社からはボーナスがなかったし、家計は苦しかったので、書金はたったの3万円。仕方なく、友達、前の会社の取引先の担当者、兄、知り得る限りの人に出資をお願いして集めた資金が120万になった。

当時は独立する時に政府の支援などはなく、この120万円が全資金だった。仕方なく、サラリーマン時代会社が仕事を頼んでいた公認会計士に紹介してもらい、ある銀行から少し融資を受けた。

その後その銀行とは後でメインになる銀行と取引が始まる前までずっと融資をしてもらった。銀行との取引はサラリーマン時代経験があったので、これが参考になった。

サラリーマン時代、本田技研工業に特許の関係で助力をしたことがあり、独立した旨の挨拶に行くと、取引しないかと誘われ、ホンダが顧客第一号になった。

サラリーマンをしていた会社とも話し合い、小さな顧客はこちらが引き継ぐことになり、それがある程度の柱になったことは否めない。

会社はそんなことで私、営業部長、営業マン、技術者の4人で初め、私が代表になった。私は4人の中で一番年少だったので、代表になることを反対する株主もいたが(たった5万円の株主)、私はそれが嫌なら他の人は辞めてくれて結構と強気で臨んだ。

 

そして会社はスタートしたが、営業経験者の2人は営業ができない。

その時、ある程度の基礎がある会社で営業部長としてやっていた人でも超零細な企業ではそんな過去の経験などなんの役にも立たないと気づいた。

そして3年が過ぎた。ホンダは大きすぎ、こちらは小さ過ぎた。どうしても考えややり方が違うので、とうとうこちらが投げ出し、取引を中止した。大きな赤字を負ったがこれは銀行からの融資で補填した。どうしてそんなことができなのかはまた後で述べる。

 

3年経ったところで頼りにしていた営業部長がやはり独立して、会社は実質営業マンがいないことになった。

因みにこの人は社員の済んでいるマンションを担保に銀行から融資を受けていたが、倒産してその社員は家を失くした。

しかしなく経験のない私が営業をすることにしたのだが、最初の売上は7000円、その3ヶ月後の売上も10万円。これではやっていけないが、必死に努力して、1年後には月に2000万円の売上を達成するようになっていた。

私は所謂営業マンではない。相手の人を煽て上げ、言いたいこともぐっとこらえるタイプだった。

ここから分かったことは誠実で、商品の説明をきっちりとやり、顧客の要望をできる限り満たすことでどんな性格の人間にも営業ができるということだ。その人にあった顧客ができるということで、これは前の会社の社長が唯一教えてくれた教訓である。

大会社では顧客は固定で、それこそゴルフの付き合い、お中元、お歳暮、飲食接待など世間で言う営業活動をしていれば、何とかなるだろうが、零細、中小ではそうはいかない。

 

そんなことで私は本当の意味の営業を経験した。

当時のアイデンティティは「事故車のボディの修理用の資材の輸入卸販売」で、これは相当長く会社の柱になった。

結局私以外の3人は辞めてもらった人も含めて、全員がいなくなり、新たに2人雇って会社を回した。ここから利益は大きくなっていったが、それまでは春になると「自分にはいつ春がやってくるのだろうか」と河原を散歩しながら、嘆息したものだ。